やりたいことリストに書くことを考えている。
手帳シーズンになったので、来年用の手帳を買い揃えた。手帳を買ったら絶対に書こうと思っていたのが"やりたいことリスト"だ。
社会人になってから年々時間の進みが早い。毎日仕事でばたばたしたり、引っ越しや転職などの大きなイベントがあったりしたのに、"思い出"がない。「20XX年は何をしていた?」と聞かれても、その年のわたしは何をしていたかパッと答えられない。
次に迎える年から「今年は充実した年だった」と目で見て実感できるものが欲しくて、"やりたいことリスト"の挑戦を思いついた。これだけできた/できなかったと一喜一憂したい。
さて。わたしが調べた限り、リストに書く"やりたいこと"は100が定石とされているので、例に漏れずわたしも100個書いてみる。だけど全く書けない。1つ目からリストに書き込む手が止まる。
この記事の内容について、誤字チェックと日本語的な違和感が無いか、また理論が飛躍していないかチェックして。
読み手が楽しめる内容になっているかチェックして。
タイトル:やりたいことリストがひとつも書けない
"やりたいこと"が全くないわけではない。
興味が湧く分野はいくつかあって、そこから派生する"やってみたいこと"はある。それなのに「どうせできない」と考えてしまう。毎日仕事で追われていて時間もないし、自由気ままに遊べるほどお金もないし、何より自分には能力がない…と、ストッパーがかかってしまう。
ますます不安になる。このリストに何も書けない限り、時間もお金もない無能のまま無駄に人生を終えてしまうのだろうか…。
そんなとき、ふと思いついた。
わたしの不安要素がすべて取り払われたら? たとえば、もし働く必要が無くなったら? 具体的には、お金が十分にあって、働かなくていい分十分に時間があって、無能であることは変わらないままだったら――つまり"暇"になったら、わたしは何をするだろう?
わたしは"何者か"であることにこだわると思うので、暇に耐え切れず結局何らかの仕事に就いてそう。稼ぐことや成果を出すことに躍起にならなくていいから、気分で仕事を選べるだろう。もしそうなら何がいい? お金があるならそれを資本に自分で店を作ってみちゃうのもアリ。仕事なんかせず、思い切って学生になってみたいかも。もしそうなったら専攻したいのは…。
あ、するする連想できる。
あくまで"やりたいこと"であって、"やれる"と決定したわけじゃないのに、本当に"やれる"ような気がして気持ちが大きくなる。寝台列車に乗りたい。ピアノを弾きたい。ZINEをつくって文学フリマに出店してみたい。……仕事に追われる中で「どうせできないから」と気持ちを抑えていた過去の"やりたいこと"も湧き水のように出てくる出てくる。
そうしてようやく40個書けた。
(一気に書き出したあとのページを見て、「こんなにやりたいことがあったんだ」と自分の気持ちを確認できるのはうれしい。これも書くことの楽しみのひとつであることを思い出した。)
“現実的な制約”を一度脇に置いて、"暇な自分"を思い描くだけで、一気に想像のエンジンがかかるものなんだ、と感心する。そういう意味では"暇"であることは、クリエイティブな活動をする上で必要なことなのかもしれない。
「暇人?」と言われると焦りを感じるほど、暇であることは後ろめたい。仕事や義務、効率や成果に追われる日常はどうしても「何かを生み出す」より「何かをこなす」方向に意識が引っ張られてしまいがちだ。一方で意図的に暇でいることは「こなす」から「感じる・考える」に変える行為でもある。
"やりたいことリスト"を作成するにあたって、最終的にわたしは仕事とは違う"忙しさ"を手に入れようとしていた。充実した日々を過ごすには、24時間365日、常に活動して忙しくしていなければならないと考えていたからだ。
だけどこれからは、"やりたいこと"を実行すると同時に暇でいられる時間も確保したい。やりたいことは暇の中で育つからだ。立ち止まりながら進むように、“暇”を抱えたままやりたいことを少しずつ叶えていけたらと思う。
残り50個、空白のままの"やりたいことリスト"は12月の誕生日までに埋めるつもりだ。リストを書き始める前は焦りや不安を案じていたこの空白も、今となってはいとおしい。